売上規模は約2倍となった。
規模を絞って経営を続けてきたBMWにとって画期的なことだった。
また米国では、ヘルムート・パンケが1991年にBMWの米国法人の社長として派遣され、時代に対応した。
パンケは、当初北米BMWの運営経費削減などに取り組んだが、レクサスやインフィニティの攻勢を目の当たりにして、全車種のモデルチェンジと品質改善に取り組んだ。
例えば1992年からはデザインを全面的に見直した325iセダンを売り出し、93年からはBMW初の8気筒「レクサス」、「BMW」、「メルセデス」エンジンを搭載した740、セダンを売り出した。
BMWの価格が日本車と競合できるぐらいまで引き下げられるよう、装備の見直しを本社に求めた。
その結果、新325の販売価格は3万ドル以下、新740の価格も5万5千ドルを切った。
またディーラー網の強化策を打ち出し、全店舗に接客マナーが徹底できるよう、ディーラー運営のコンセプトを見直した。
サービスの低廉化と同時に、米国人の好みにあわせてカップ・ホルダーやステレオを装備したり、革の内装を施すなどのインテリアの拡充にも力を入れた。
この時実行したのが、米国初の組み立て工場をサウスカロライナのスパータンバーグに建設したことだった。
当時の社長のピシェッッリーダーも、BMWとしては最初の本格的な海外組み立て工場を米国に立ち上げようと考えていたが、歴史ある港町に近く、ドイツ企業が進出していたチャールストンからも遠くないという理由で、ここを進出地に選んだ。
1994年には新工場が稼働し、まずZ3ロードスターを、次いで99年からSUVのX5を、さらにZ3の後継車であるZ4を生産するようになった。
マーケティング戦略の転換こうしたテコ入れが効果をあげ、米国におけるBMWの売上げは91年から持ち直し、93年には7万8千台に増加した。
しかし、株価と収益は思わしくなかった。
このため宣伝業務の立て直しが課題になった。
1996年の調査で、BMWに立ち寄る顧客のうち18万人が他社のクルマを買うという結果が出た。
BMWを選ばなかった一番の理由は「もっと運転が楽しいクルマを買ったから」だった。
これを機に、BMWの宣伝は性能重視の基調に変わり、スポーティな走りに対する信頼回復に努めた。
18カ月の宣伝活動の後に、再び売上げは伸び、走りの喜びに対する評価が回復した。
1946年にフェルステンヴァルデのプロイセン地区に生まれたパンケは、すぐに家族とともにミュンヘンに移った。
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